Spiral-World

めくるめく世界での個人的な日記

信じる心

統一教会に続き、

運営実態での問題がとり立たされたエホバの証人

 

宗教とは人類そのものの歴史とほぼ寄り添い、

常に問題を抱えているように感じるボクは、

無宗教者だ。揺るぎなく。

でも、無神論者ではない。と思う。

 

それがなぜなのかを語ると2日間くらいかかるので、

一気に割愛すると下記の6点が引っ掛かるから。

 

・具体的な人や物が神として存在する

・訓えに、味方と敵、善と悪が歴然と存在する

・神や訓えを信じ仕えるものだけが救われる

・宗派や団体が存在する

・信者となるために金銭などが必要となる

・教祖の顔や存在感が生理的に気持ち悪い

 

信仰の自由も信仰心をお持ちの方々も、

否定する気は、これっぽっちも無い。

 

でも、上記のような条件とかシステムみたいなモノに、

ボクは強い違和感を覚えるのだから仕方ない。

 

オウムや統一教会は論外。

で、エホバの児童への体罰も同様だが、

輸血拒否をにはちょっと複雑な想いがある。

 

治療内容は個人の意思が尊重されるべきで、

国や医療関係者はもちろん、

三者が想定する「最善」が優先されるのは、

かなりおかしいと思うからだ。

 

命を救うために常に最善を尽くす。

 

それは医療に関わる方々のみならず、

多くの人に共通する想いであり、

なかば人類の使命であることは百も承知。

 

特に、大切に想う誰かが命の危機に瀕していれば、

いっそうその願いというか想いは強くなる。

 

他方で、繰り返しになるが、

命のあり方や尊厳については、

個人の意思や価値観が最優先されなければと思う。

 

1985年6月6日の16時35分、

川崎市高津区で交通事故が発生。

当時10歳だった男児がダンプに両足を轢かれ、

救急搬送される。

 

担当した医師は輸血さえすれば助かると判断するも、

両親からは輸血拒否の意思が示され、

結果的に男児は死亡した。

 

当時はその両親とエホバに対して、

日本中でバッシングの嵐が巻き起こったし、

ボクもその中のひとりだった。

 

だが、その後、エイズの爆発的感染拡大に伴い、

B型、C型肝炎などの感染症の拡大に、

輸血が少なからず関与していたと知り、

かなり複雑な気持ちになった。

 

無知ゆえに盲目的批判をしていた自分を恥じつつ、

でも、今も、考える。

 

生死の境に立たされた10歳の児童は、

自らの意思で輸血拒否をするほどに強く、

その神を、宗教を、信仰していたのか?

 

たぶん、

この世に存在するすべての神にも分かるまい、と思う。