
1月8日、東京新聞が元旦掲載のコラムを取り消した。
タイトルは「〈新年に寄せて〉『熱狂』に歯止めを」。
特報部長による署名記事だった。
『中国なにするものぞ』
『進め一億火の玉だ』
『日本国民よ特攻隊になれ』
高市政権発足以降、
ネット上でエスカレートする反中感情を、
この3つのフレーズで代表させ、
戦争被害者の言葉と接続することで、
「国民的熱狂」の危険性を論じる内容だった。
ところがこの3つのキーワードが、
ネット上をいくら探しても見つけられないと、
読者やネット民からの指摘が殺到。
東京新聞は8日に記事を全文削除して謝罪。
署名コラムの執筆は、
媒体における要職者に与えられた特権に近く、
いわば紙面の「顔」とも言える役割を持っており、
その取り消しと謝罪は名誉と信頼性に関わる「大事件」。
それでも東京新聞は言い訳に終始せず、
「引用に適したものではなかった」と事実を認めた。
その対応には、東京新聞やるじゃん、と思った。
扱った内容の規模に大きな差はあれど、
朝日新聞の吉田証言報道では、
記事の取り消しと謝罪まで、
実に30年以上の時間を費やした。
東京新聞がそれをためらわずに遂行したのは、
組織の自浄能力を示す目的において評価に値するが、
そうした対応の誠実さと、
今回の特報部長の行為の問題と責任は別の話だ。
今回の件を「捏造」と呼ぶのは正確ではない。
筆者はおそらく、
ネット上に漂う空気を確かに感じ取っていた。
反中感情が高まっているのも、
排外的な言動が溢れているのも事実だが、
問題は、その「空気」を言語化する過程で、
存在確認ができない言葉を「代表例」として使ったことだ。
これは事実の捏造ではないが、印象の先取りだ。
「こういう声があるはずだ」との確信が、検証を鈍らせた。
そしてその言葉を、
戦争の記憶という重い文脈に接続することで、
読者の感情を特定の方向へ誘導した。
それは意図の有無を問わず、
構造として煽動と断じざるを得ない。
ジャーナリズムの使命は、
いかなる権力に屈しないことだと言われる。
だが同時に、ジャーナリズム自身も権力だ。
多くの読者に届く言葉は、
それだけで現実認識を形成する力を持つ。
その力が「真実の追求」に根ざしている時、
ジャーナリズムは国民から信頼される「権威」となるが、
「正しい結論」への個人的な確信が、
公平で多角的な検証を追い越せば、
それは別の種類の煽動機関となる。
東京新聞が今回示したのは誠実さだけではない。
自らの言葉が持つ権力性への、
遅ればせながらの自覚だったかもしれない。