喋るにしても書くにしても、言葉って難しいなと思う。
長野市での公園廃止と、
成田空港周辺のやぐら撤去の報道に改めて思う。
こうした問題を報じる時、
新聞やTVではセット販売のように「民主的」とか、
「地域貢献」とか「議論を尽くす」などの言葉が使われる。
長野市での公園廃止については、
長年にわたって市に苦情を出していた住民が、
子どもたちの遊び場を奪う悪者として扱われるケースがあり。
かたや、成田空港周辺でのやぐら撤去には、
少数の反対派の行動が擁護されるケースがある。
どちらも長年にわたっての問題であり、
それこそ議論もされてきたはずだ。
保育園建設に反対し開所を断念させた地域もあるし、
学校での運動会中止を求め、
脅迫状が送り付けられたこともあった。
公園や空港や保育園や学校に限らず、
地域のゴミ集積所や大型の処理場、
火葬場や霊園などでも似たケースがある。
いずれにしても公共性が高い施設。
多くの人にとって必要不可欠なのだが、
それを自宅のそばに作ってほしいと願う人は、
あまり多くないだろう。
そのエゴというか本音を覆い隠すために、
民主的とか議論とかって耳障りの良い言葉を使うのは、
いかがなものかと思うのだ(笑)
10年ほど前。
北海道の会社に行政と消防の担当者が尋ねて来られ、
弊社入口側の歩道に消火栓を設置させてほしいと頼まれた。
設置はまったく問題ない。
ただ、なぜそこが良いのかと、好奇心で訊くと、
近隣すべてで断られたのだと、
顔見知りの行政担当者が小声で言った。
町内会長を受けた時には、
地域の集積所の2ヶ所を自宅前と弊社横に移動した。
隣接する方たちが、
カラスがゴミ袋を食い散らかすと難色を示したので、
行政の補助を申請してスチール製の大型BOXに変更し、
生ゴミ用のフタ付きコンテナも設置した。
「その程度でやってるアピール?」
そう言われそうだし、
確かにその程度ではあるが、
自分がやれることだけでも、やってはいる。